TOMIと慎太郎
中登美団地の南西角地にあるコレ。
1967年~1969年の団地建設当時に建てられたモニュメントだったみたいだけど、
時を経て、画像のように色褪せたコンクリートの塊になっていました。
近隣住民から「あれずっとあのまま!?」という問い合わせがUR都市機構にあった為、
撤去の話も出たそうですが、新しいデザインで色を塗り替えようということに。
じゃあ何のデザインに!?当時のURの中登美団地担当の方が考えた時、
僕がよく話していた登美ヶ丘の地名の由来の話にピンと来てくださり、
どこか鳥っぽい形もちょうどいいということで、
金鵄(きんし・金色に輝くトビ)のデザインに決定。
そのデザインを僕が担当させてもらい、2017年にUR都市機構さんの協力のもと、こんな感じに!「金鵄(きんし)」というのは、日本書紀によると、約2700年前の神武天皇と長髄彦(ながすねひこ)の戦いの時、神武天皇の弓の先に金の鵄(とび)が舞い降り、光を放ち勝利したと書かれています。これが今の富雄川上流一帯で起こったとされ、古来よりこの地は鵄邑(とびむら)と呼ばれるようになります。この「とび」の音がさまざまな漢字に変化し、現在の登美ヶ丘、富雄、鳥見町の由来になったとのこと!
じゃあその「金鵄(きんし)」が表すものって何でしょ!?
僕が思うに、古代出雲王朝で栄えた氏族、富(とび)一族のことじゃないかと思ってます。
神武天皇が来る以前に、大和に古代出雲王朝から富一族が流れてきていて、土着の人たちと融合して暮らしていたとされ、それを治めていたのが、後に神武天皇と戦う長髄彦(ながすねひこ)、又の名を、登美能那賀須泥毘古(とみのながすねびこ)。そうです「登美」なんですね〜
おそらく、戦いの時に神武側に富一族の誰かが寝返ったのか!?降参したのか!?国を譲ったのか!?かはわからないけど、それを「富=鵄」の表現にしたのでは!?個人的には、長髄彦は戦で血を流すことよりも国を譲る選択をしたのではと思ってます。その後、長髄彦は東北へと旅立ち、蝦夷の神「アラハバキ(荒脛巾)」になったという伝説も残っています。日本書紀には当時の権力者の都合のいいように書かれているのでしょう。ちなみにジブリ映画「もののけ姫」の主人公アシタカは、この長髄彦のことを描いたのではとも言われています。
現在、富雄川沿の二名平野には杵築(きつき)神社があり、祭神は素戔嗚命、大国主命、市杵島姫命と出雲系の神様達。しかも出雲大社の呼び方は明治時代まで杵築大社だったことから、まさに出雲からの流れです(現在も出雲大社の住所は出雲市大社町杵築東!)。そこから富雄川を南に7kmほど行くと登彌(とみ)神社もございます。さらに全国には杵築神社が点在していますが、特にこの奈良県内に20社以上あり一番数多く存在していますし、桜井市三輪にある大和国一之宮の大神神社(おおみわじんじゃ)の祭神は大物主神、出雲大社の祭神は大国主神で、どちらも同じ神様とも言われています。大神神社の東側にはそのまま出雲という地名まであります。もちろん島根の出雲市にもしっかりと富村(とびむら)に富神社も存在し、他にも大和と出雲の深い繋がりを示すものが、地名や神社など、両地に数多く残っているんです。
昭和の新興住宅地と思ってた地元に、まさかこんな歴史が埋もれていたなんて!教科書で習った奈良時代よりも爆裂に古い!なぜこのような歴史を学校では教えないのか!?それは今の日本の...いや、世界の支配者にとって都合が悪いんです(笑)。だって、この話に限らず、地球の本当の歴史を皆が知ってしまったらこの世をコントロールできないんですもの、おほほ。
僕は怪しい話が大好きなもんでこんなこと言っちゃってますが、歴史の真実は正直わからないです。でも、隠されている歴史、塗り替えられた歴史があるのは事実。血を流す争いや、悲しい出来事もあったでしょう。良いも悪いも様々な歴史が存在し、先人たちが生き抜いてきてくれたからこそ、僕らが今生きているのは確かな事。そこに思いを馳せ、ご先祖様たちを偲ぶ。この地球の物語は面白いなーと思います!僕たちはそれぞれが自分の物語の主人公ですし、全ての登場人物に感謝したいと思います。
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